別の記事で、もともと創作活動をしていましたが、
精神的な事情で風変わりなこともあり、芸術への道を示されたと書きました。
この「風変わりさ」とつき合うのは、本当に並大抵のことではないと、最近、あらためて。
風変わりさにもいろいろあるでしょうが、私の風変わりさは、
風変わりさのなかでも、とくに風変わりらしいのです。
芸術はとても不思議なもので、基準が「心の目」ともされています。
それぞれその時々の「心の目」で決まるので、実際の基準は多様化されますが……。
私も私自身の風変わりさを、心の目でみることがとても大事だと、最近、分かりました。
それも本当に、並大抵のことではありません。
心の目でみなくても分かる情報は、たくさんあります。
それらをシャットダウンして、縫うようにすり抜けていくのです。
シャットダウンさせる頻度は本当に多く、意図的にやっていると、私は疲れてしまいます。
意図的にやらなくてもいいように、
「もともと気にしないこと」を、増やしていく必要もあるのです。
これらを充分に達成できるようになるまでは、まだまだ時間がかかりそうです。
途中から「風変わりさの受け手」として書いてきましたが、
「風変わりさの送り手」としての文章に、戻します。
私は時間が経過すると「風変わりさ」が下がっていって、
逆に「普通さ」が上がっていくようです。
風変わりさと普通さのぶつかった時が、一番認められるのではないかと。
しかし、それを気にせず、現在の
「風変わりさが普通さをずいぶん上回っている状態」を、
なるべく保っていくのが、私のやるべきことのような気がするのです。
私が風変わりさとつき合う時にとても大事であるのは、
「風変わりさの受け手としての鍛錬をしながら、
風変わりさの送り手として、これ(風変わりさ)をなるべく保っていく」のようです。
今回は私を、別の記事と同じく例として、
芸術を心の目でみることや、風変わりさとのつき合い方について、書いてみました。
たくさんのことと同じく、それぞれその時々であるのですが……。
少しでも参考になったようでしたら、とても幸いです。